瓜生山学園設立の趣旨
この大学は現代文明への深い反省と激しい苦悩の中から生まれた。 新しい世紀を目前にして、私たちは今日、大きな壁の前に立たされている。 科学技術と経済論理によって支配された現代社会は、それ故に、人類史を貫いてきた精神の尊厳、人間であることの意味を、根底から問われるに至った。 もはや、いわゆる国際化、情報化という手段のみによっては解決できない。 良心を手腕に運用する新しい人間観、世界観の創造こそ大切ではないだろうか。私たちは、芸術的創造と哲学的思索によって、この課題に応えたい。 一九九一年 春
いま、ここに、学園は新しい出発の時を迎えようとしています。 この時にいたって、私は、一つのためらいをかくすわけにはいかないのです。 今日の状況下で大学をつくることの物理的な困難についてはいうまでもありませんが、もっとも大切なこと、――それは、高い理想を掲げ、わかものたちを集める教育研究の場に当る者は、みずから未来への展望と、それを実現させていく深い思想を持たなければならない、集まってくる青春群像にむかって、「かく生きるべし」と堂々と語りかけるものを持っていなければならない、という ことです。 わかものたちにはわかものたちの青春があります。私の青春時代を通じて培ってきたものが、きみたちわかものの人生にどれほどの糧となることができるか。――こう考えてくるとき、みずから恥入ることのいかに多いことか。 戦後の混乱期に青春を過した私にとって、それは、痛みと憤りなしに振り返ることのできない時代でした。と同時に、それ故にこそ一種の鮮烈な精神の高揚を味わいつつ生きてきたこともたしかです。 青春というものは、いつの時代でもそうしたものではないでしょうか。それならば、私は、私の夢と信念をわかもののなかへ投げつけて、一緒にひたむきに生きて行くほかはない。 こう念じつつ、私はこれから一つの決意をきみたちに語ろうと思う。
美しくよそおいたまえ―美とは「心の姿」である。 この学園は、美について語り、美をさぐるものの集まりとして存在しています。 美を求めようとするものは、当然その人固有の美観でみずからをよそおい、自分のもっとも美しい姿を他に見せようとするものだし、他人の美しさに対してもすこぶる豊かに感動するものだと思うのです。 だから、この学園は常に美を意識し、美しさについて敏感なわかものたちの群がる場であるべきだと思うし、したがってまた自他の美をきそい合う場になることも当然だと思っています。 そこで誤解のないように言っておきますが、″自己をよそおう〟という場合、ただ単に服装や容姿にこだわれというのではないのです。なぜなら、人間の美しさというものはそういったもので左右されるものだとは決して思っていないからです。 学生は本来貧しいものです。 ぜいたくをした美しさは大切だし、そうしなければ得られない美というものも当然存在しますが、おかねをかけない美、貧しさの美というのもまた立派に存在するし、ある意味では学生のみに許されたひとつの特権的な主張のしかたではないかとも考えます。 さらに言うなら、若さの美というものは物質というものをはねのけたところで完全に主張しうる ものだとも言いたいのです。 また、人間の美しさというものは、その人格が美を意識すると否にかかわらず、いついかなるときでも、自然にあることがすなわち一種の美の表現でもありうるのです。 たとえば、恋愛に破れたとき、きみは激しい衝撃のなかで、生きていることを否定したいくらい悩むかも知れない。けれども、そのときの衝撃のあり方や悲嘆のあり方にも、深い人間的な美が内在すると思うのです。 肉親の死や自己の才能への絶望といった苦悩のなかにあっても、その人間の全的な表現の中にすぐれた美しさがひそんでおり、さまざまのよろこびやひたむきな勉学、友との語らい、遊びの一瞬の中にそれぞれの美しさは見い出せると思います。だからこそ、昔から芸術家たちはさまざまの手法で、くり返し人間を描いてきたのでしょう。 だれしもが自分を美しく見せたいという願望を持っている以上、そんな日常のくらしのすみずみにも美の原型がひそんでいるということ、美はおかねではなく人間の生きざまの総体の中にその原点が存在しているということを、よくわかってほしいと思うのです。
あそびたまえ、試みたまえ―より豊かさを求めて 大学というところは、学問の府であって真理の探求を志すところであると言われています。 いかにも、もっともな考えだけれど、これは大へん古典的であって現実の大学の姿をほんとうにあらわしていることばではないと思います。 現実の大学は、過酷な進学競争と愚劣な就職闘争の谷間に位置し、受験地獄からの浅薄な解放と、将来の社会生活に対する危惧のなかでの一種の不安定期間、あるいは人生におけるかりそめの期間であって現代学歴社会に入りこむための資格取得期間にしか過ぎなくなってきています。 真理の探求といっても、それを標榜する先輩諸賢が、どんなにこの国や世界を荒廃させたことでしょう。戦争を起こし、人間を傷つけ、公害を許し、いかに汚辱に満ちた生活をしてきたかを私たちはまざまざと見てきたのではなかったでしょうか。 不変に大学の理念とされる″真理の探求〟が、果してなんであったか、今深い反省をこめて疑わざるを得ません。 さらに、 真理の探求の使徒としての学者一般に対しても、卒直に言って批判的にならざるを得ないのです。 すぐれた学者、尊敬する学者は数多くいるけれども、またみずからの生活と体面のためにのみ存在していると思える学者のいかに多いことか。その信ずるところに従い、矛盾や悪に対して断乎として所信を貫く反逆の姿勢を示しうるひとがあまりに少ないのです。 きみたちはわかものらしくするどく純粋なひとみを持っているから、そうした先生をすぐ見破ることができるし、したがって信頼もせず、教えを乞うこともしないでしょう。ただ、就職のためには卒業しなければならないから、単位だけはとにかく取っておこうとします。また先生は、そうしたきみたちを見て特別な苦痛を感ずるわけでもありません。 そこには冷たい断絶の関係があるのみで、学生生活はみのり少なく、空虚で生半可な知識だけを詰めこんで卒業していってしまうのです。 私はそんな大学はぜったいにつくりたくありません。 この短い期間にいかほどのことをきみたちに与えられるかは疑問だけれど、ぜひ伝えたいのは、 なにが美しくてなにがみにくいか なにがほんとうでなにが嘘か ひとを愛するとはどういうことなのか 人間とはどんなものか いかに生きるべきか などといったことにつきると言えましょう。 私は、今ここに″美〟や″芸術〟をさぐる大学をつくり、人間的で、わかもの的で、反逆的でかつ真摯な教師たちとともに、きみたちを迎えようとしています。 美を基軸とした人間観、世界観、生きざま論をぶつけ合い、語り合い、はぐくみ合ってゆきたいと考えています。 そこできみにお願いしたいのは、大いに遊べ、そして大胆に試みよ、ということなのです。少年時代から青年期に移り変わるその純粋で貪欲な時代に、きみの持つ世界を画然とおし拡げ、さまざまの事象をきみの内部に蓄積してほしいと思うのです。 友との遊び、異性との交わり、おとなの世界への一歩、旅、音楽、文学、スポーツ、さらにきみの得意とする創作上の試み、手をつけたことのない創造への道程、すぐれた芸術家たちとの接触、労働や生活の体験など、目もくらむような試みのなかで、きみという人間をみつめ続けてほしいと思うのです。 そうした体験と観察・自己洞察と反省の数々をこのキャンパスのなかへ持ち帰ったとき、きみの信頼する友人や、尊敬する教師たちはきみに助言を与え、かれらの体験を語り、すぐれた人間としてのきみの生き方を多く示唆してくれるでしょう。 そこでは、きみの人格はこの狭いキャンパスをのり越えて、人間的に豊かに生育するにちがいあ りません。 そこに大学としてのひとつの意義があると考えるのです。
友を求めたまえ―美しきまどいの年代 学生時代というのはよき師を得る時代であるとともに、よき友を得る時代でなければならないと 思っています。 私じしん、多くの師と多くの友にめぐまれているけれども、ほとんどが学生時代に得た師と友です。 この人たちなくして今日の自分はあり得なかったであろうと言いうる程、深い連帯感のなかで私は存在しています。 考えてみれば、この短い学生時代、学園はなにほどのこともきみたちに教えることはできず、大学で学んだことが、社会に出たときにどれほど役立つかを語ることは非常にむずかしいことでしょう。 むしろ大胆に言うなら、無限ともいえる厖大な学問の量をむりやりきみの内部に蓄積させるべくけんめいに働きかけるより、同世代のわかものたちがあい寄って、ひとつの共感を持ち合う場をつくることのほうが、大学自体としては大切なのではなかろうかとも考えたりしています。 まさしく学園というところは、きみたちがいずれ知るであろう社会生活における利害得失のいやしさやみにくさが、比較的少ないところであるということができるでしょう。学生は、矛盾や罪悪をきびしく直視する若さ、純粋さを持ち、したがって理想やロマンをかざらず語ることができるのみか、すべての学生が、おたがいへの善意をもって共感しうる、めぐまれた場であることは明らかだと思います。 人間は、ひとりでは絶対に生きていけない、だれもが自分を理解し、昂めてくれる相手を求めていることは厳然たる事実です。 芸術や美の世界は大へん孤高なものではあるけれども、自分の作品を認めてくれる友人があれば、それはどんなに幸せなことでしょう。その友人が多ければ多いほど、よろこびはまた大きいにちがいありません。 多くの友人を求め、語らいと哄笑のなかで、自己を友と比較したまえ。友のこころを理解し、共感しようとつとめたまえ。またかれらのすぐれた部分を奪いたまえ。そしてかれの持つ悲しみや、時として深く沈潜しているかれの孤独を静かに見守ってやってもらいたいーーー
教師の自己否定―師もまたきみとともに悩めるもの ″師〟とは一体何だろう。 ″師〟とはまず、きみよりすぐれた知識とすぐれた技術を持ち、またすぐれた感性と理論を持っているものといえます。 そしてきみたちに、自己の考え方や感性についての共感を求めつつ、全人格においてきみを圧倒し、その力を伝えようとするものです。 さらに教師は自分の体験や人間観によって、きみの内部にひそんでいる可能性、たとえば才能とか感性といったさまざまの全人格的なものをひきずり出し、きみにそれを認識させ、きみの特技と個性をきみの意識のもとに置かしめる作業をなすものです。 だから、すぐれた師を持ったひとは幸せだし、かれはその一生を師の影響のもとに生きることになるでしょう。 しかし、そういうすぐれた師であってもその力は果して絶対的なものなのでしょうか。 否、絶対の芸術というものが存在しないのと同じく、絶対の師というものは決して存在しないと私は思います。 まず、その師であることを支える一つの重要なものは、(特に芸術、学問の世界においては)その人が培ってきた「業績」ですが、この業績というものはよほどのすぐれたひとを除いて、いずれ必ずその発展は停止し、また鈍化するものです。 これは、師の才能や体力、頭脳の力によるけれども、悲しいことに一定の時点、一定の年齢になるとどうしようもなく力の減退をきたすものだと思うのです。 業績の停滞と時を同じくして、師の理解力、洞察力も停滞し、あるいは鈍化します。またさらに感性も技術力も以前の燃えるような創造力をうしないがちです。 また、師を培った時代の文化的潮流が一定の爛熟期を迎え、これをのり越えて新しい潮流が台頭し始めると、師はそれを肯定するとしても、その主導的な立場をとることは一般的にはもはや不可能となり、新しい次の世代にそれをゆずらざるを得なくなります。 師は人生と学問の世界のむずかしさをしみじみとかみしめながら、みずからの業績を静かに観照し、それを深め、豊かに肉づけし、みのらせることがしごととなります。 そうした師の薫陶をうけてきたわかものたちは、師の偉大な業績をうけつぎ、師によって磨かれた創造力を縦横に駆使して自己を主張し、新しい時代と環境に対応するあらたなる思想の確立をはかるのです。 もはや、わかものたちは師をのり越えようとし、師の創作力に頼ることをしないでしょう。かれ らは師の時代は去ったことを感じ、みずからを時代文化の先駆者と感じ、いよいよ後進を導く立場 に立とうと考え始めます。 たしかに、時代の創造者たちによって、必ずその師はのり越えられ、先輩は否定されるものだと思います。 それが時代発展の真実の姿だと思います。 ことばを変えて言えば、師はみずからを否定せんがためにこそ、わかものに立ち向かい、わかものを教えていくのだと言いたいのです。 むしろ一刻も早く、自己をのり越えるわかものを育てることこそ、師の師たる道ではなかろうかとも考えるのです。 移り変る時代と環境のなかで自己を確立し、より創造的たらしめようとする師のあり方は、いかにも苦渋に満ちたものであるし、その姿はまさに偉大という外はありませんが、その意味では教師もまたきみたちと同じく一個の学生としか言うすべはありません。 わずか数歩、あるいは数十歩、きみたちより先んじて歩いている先輩とでも言うべきでありましょうか。 もしきみが期すべきものを持ち、創造的たらんとする願いを持っているのならば、謙虚に師のことばを聞き、師の訴えんとすることを誠実に吸収しなければならないでしょう。
青春、ひたすらに生きよ―時代はきみたちのものだ こうして私は、きみたちにかくあれかしと願う学園の思想を語ってきました。 私もまた、きみたちと同じく私なりの道程を歩いている一個の学生にしか過ぎないのですが、立学に当って、私の日頃考えていることのいくつかを語ったつもりです。 学園は一歩をふみ出したばかりです。 最初に言ったように、これまでの既成の大学のあり方や学生観にはとてもあき足りないし、何よりも多くの大学が性格上必然的に備えていなければならない人間観や世界観、とりわけ理想主義を失っていると思うのです。 青春は必ず次の時代を担うはずだし、それならばあくまで既成の観念のなかに閉じこもらず、新しい時代の創造をめざす活力を、大学は養わねばならないと思います。 たしかにこの時代は頼るべき権威は地に落ち、一国の支柱たるべき青春を養うための、世界へ向っての理念もまた枯渇しているかに見えます。 だから、この学園が新しい世界観や人間観創造のメッカとなり、同時にすぐれた次の時代を導く美の概念を生み出す土壌とさえなってくれたら―― そのためによろこんで私たちは捨て石になるつもりだし、この学園に集う多くの先生も意気ごんできみたちを迎えようとしています。 ロマンを求めてあい語らえる青春、この時代、この現状にあき足りず、迷い深く、生きることに望みを求める青春。 きみたちにこそこの学園に集い、学園とともに生きることを望んでやまないのです。 一九七六年 秋